弁護士として被害者支援を多数経験していると、裁判の中で、必ずといって良いほど加害者の口から耳にする言葉がある。
「一生かけて償います」。
しかし、残念ながら 、一生かけて償なった加害者は、あまり見たことがない。
執行猶予判決が出たらこれ幸いと知らぬ存ぜぬの知らんぷり。
これが執行猶予判決をもらった加害者のほとんどの実態である。
もちろん、そうでない例があることも知っている。
被害者代理人弁護士の口座に毎月、被害弁償金を振り込んでいる者もいる。
ただ、そういった例は、例外中の例外で、今や絶滅危惧種といっても過言ではない。
さらに、もっと酷い例もある。
裁判中、加害者が、被害弁償と称して数百万円を法務局に供託したところ、これも斟酌されて減軽された判決が確定するや否や、その供託金を、被害者が受け取る前に、さっさと取り戻してしまった例もある。
そもそも、一生かけて償うというのなら、残りの平均余命の期間の毎日を、どうやって償うのか、その毎日の贖罪の道筋を具体的に提示し、その履行を担保する保証人をつけてもらわない限り、被害者からすれば信用などできないし、執行猶予判決を得たいがための口先だけのものにしか思えない。
そして、もう一つ大切なことを忘れてはいけない。
一生かけて償い、毎月被害弁償金が振り込まれても、犯罪の種類によっては、被害者や遺族の立ち直りには必ずしも直結せず、かえって被害感情を逆撫でされるケースもあるということである。
犯罪の中には取り返しのつく犯罪と(例・軽い身体的な傷害罪で完治できる程度のもの)、どんなに反省し真人間になっても償えない犯罪がある(例・殺人罪、とりわけ死刑相当の事件や、「心の殺人」と言われる性犯罪)。
殺人事件など凶悪事件の遺族の多くは、「被害前の生活を取り戻すことはできない。反省し真人間になったからといって何なんだという他ない。被害弁償をしたからといって大切な家族の命が戻ってくるわけではない。被告人の自己満足だ。」と思っている。
被害弁償は、被害にあっていない幸せな第三者である私達にとっては、さらなる被害者が現れないよう更生のため続けて欲しいとは思う。
しかし、加害者が与えた事件の最大の当事者である被害者遺族にとっては、自己満足であり、そのことで、被害者遺族の心が癒やされるわけでもなく、許しに繋がるわけでもないことを、厳しい言い方かもしれないが、被告人は思いを致す必要がある。
さらに、被告人の弁護活動との関係でも問題が多い言葉である。弁護人の立場からすれば、一生かけて償いますという言葉を「心から信じる」のは職務であり、私が弁護人ならやはりそのように言わざるを得ないかもしれない。
ただ、それは弁護人の職務として法的には正しいということだけだ。
問題はその後の道義的責任だ。
もちろん、それは、人それぞれであり、他人が偉そうに指示できることではない。
ただ、その後の実態を知ってほしいと思う。
被害者支援弁護士の口座に定期的に被害弁償金が振り込まれている「裏の実態」を調べてみると、刑事裁判で弁護人をしていた人は、「事件は終わり加害者との委任契約は終了しました。
その後のことは関与しません」と、にべもなくお答えになられる方が、全員ではないが、そのほとんどである。
結局、被害者支援であるから被害者のために受けとることにはなるが、その結果、加害者の更生も被害者支援弁護士が担っているという逆転現象が起きているのである。
裁判で、一生かけて反省しますとか、償いますとか述べた言葉を「心から信じる」ことは自由だが、加害者の弁護人も、もう少し、そう述べたことに対するその後の道義的責任を自覚して欲しい。
最後に裁判官へ一言。単に紙の上や口先だけの言葉ではなく、以上の実態を踏まえて、執行猶予判決を言い渡すか、実刑判決を言い渡すか、自己の良心に従って、今一度立ち止まって良く考えて頂きたい。
というのは、償うだろうと思って執行猶予にしても、執行猶予判決を食い逃げる例が後を絶たないからである。
これは、被害者にとって耐え難い苦痛であり、司法への信頼を失わせるものである。
今の法制度では裁判官は判決後の結果に責任を負うことはない。
だからこそ、その重さを良く考えて頂きたい。